法然上人とは

16世紀のヨーロッパで起こった宗教改革。
日本ではそれに先立つこと400年。
12世紀、法然上人によって“貴族”から“民衆”に仏教の主人公が移りました。
その中心にはいつも、
「南無阿弥陀仏」の念仏がありました。 

(法然上人イラスト:©2021啞々砂)

勢至丸の出家

時は平安末期、平清盛(たいらのきよもり)の栄華がはじまるちょっと前、法然(ほうねん)上人こと幼名・勢至丸(せいしまる)は美作国(みまさかのくに・岡山県)に生まれました。

勢至丸が9歳の頃、父・時国(ときくに)は、対立していた役人・定明(さだあきら)に寝込みを襲われます。

死の寸前、時国は勢至丸にむかって、「そなたは、敵(かたき)を怨(うら)んではならぬ。怨みはまた次の怨みを生んでしまう。

どうか、早く出家して、さとりの道を目指してくれ、、、」と、遺言を残しました。

武士の子として育った勢至丸にとって、父の言葉は、“悲しくも尊く”、仏門の道へと進ませるものでありました。

比叡山の修行

尊敬する父が死に、愛する母とも今生の別れをして、勢至丸は一路、比叡山(ひえいざん)へと登りました。

「法然房源空(ほうねんぼうげんくう)」という名前を授かり、一生懸命に修行を進め、いつしか「智慧第一の法然房」と呼ばれるほど、頭角を現していきました。

しかし、当時の比叡山は、貴族を取り巻く仏教ばかりで、天災や戦乱に苦しむ民衆に対し、残念ながら何もしませんでした。

それに疑問をもった法然上人は、「一体どこに“皆が救われる”仏の教えがあるのだ、、、」と、ひとり悩みに悩み、なげきになげいて、黒谷(くろだに)の経蔵に籠りました。

ひたすらに経典を読み直す日々を過ごしました。

「南無阿弥陀仏」との出会い

黒谷に隠遁(いんとん)して、悩み苦しむこと20年以上、ついに43歳の時に、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の念仏と出会いました。

暗闇の法然上人にとって、稲光が走るほど衝撃的な、まさに「青天の霹靂(へきれき)」であります。

当時の仏教界では、「あの経典は功徳(くどく)がある。この修行はすぐれている」と、僧侶自身が仏の教えの優劣を決めていました。

一方、「南無阿弥陀仏」の念仏は、“阿弥陀仏”自身が「私の名前(南無阿弥陀仏)を呼んだものは、全員救おうぞ!」と誓った、仏の意思が込められた教えでした。

法然上人は、「南無阿弥陀仏」こそが、最も勝(すぐ)れた・易(やさ)しい修行、“大転換の教え”であると見出しました。

そして比叡山を降り、浄土宗という新しい宗派を開きました。

紫雲たなびく日

法然上人の念仏は、弱い立場にあった女性や子供も、平等に救う教えであったので、瞬く間に全国、津々浦々に広まりました。

念仏を称えることで、阿弥陀仏の極楽浄土へ往(ゆ)くことが出来ると分かると、皆、“生きる希望”が少しずつ湧いてきました。

その後、法然上人は、他僧侶から妬(ねた)まれ、訴えられたりしましたが、念仏を一人でも多くの人に広めようと、誠実で穏やかに、時には力強く生き抜かれました。

 建暦(けんりゃく)2年、正月25日、法然上人は多くの弟子に見守られながら、念仏を称え、極楽浄土へと旅立たれました。80歳のご生涯でした。

念仏の声するところ、みな、わしの“遺跡”じゃ!

法然上人