波乱万丈な僧侶人生を歩んだ友松圓諦先生。その原点ともいえる仏教と経済思想を取り上げて、再び「浄土」のアーカイブとしてここにお届けする。昭和四十六年一〇月号の『浄土』に掲載された友松圓諦師の「経済と仏教」。当会アーカイブで読むことができる。
掲載号
1983年4月号
はじめに
某日、圓諦先生の日記[1]を読む。
八月二十三日(月)
——五時半念仏。「無尽財と部派」の材料をだしてきて一見、とうとう朝食までかかる。浄土の原稿に着手「法然上人の経済思想」。
どうやら圓諦先生は、昭和四十六年(一九七一)、七十六歳のこの日に原稿を書き始めたようだ。この頃、毎朝の念仏が日課となっているが、それは約半年前に最愛の妻を亡くし、弟子を亡くし、さらに神田寺主管を引退するなど、突きつける無常の風の中から出てくる声であった。もちろん、自身の体調の衰えも激しく、日記にはそれが顕著に表れてくる。先生はどういう心境だったろう。今更ながら法然上人鑽仰会や真野正順先生とも縁のある圓諦先生が、どんな人生を歩んで、〝法然上人への想い〟を持っていたのか知りたいと思う。縁もゆかりもない若造が筆を執るのは、いつもながら勇気の要ることだが、幸いにも先生自身や先生を慕う人の文章は多い。ただ今回のテーマは経済思想なので、些か趣の異なるものになるかもしれない。
生い立ち
明治三十七年(一九〇四)、大雪が降る中、九歳の春太郎(のち圓諦)は父に連れられ東京にやってきた。叔父夫婦の養子となって寺を継ぐためであったが、当の本人は「東京で学問するんだ」くらいの様子なので、寺に着くなり母との別離を感じ、おいおい泣き出した。それから叔父諦常の厳しい指導のもと寺小僧としての生活が始まった。小学校の転校初日、「君のうち、何屋だ」と聞かれ、率直に「おてらだ」と答えると、どっとみんなが笑った。幼い春太郎は家業を蔑まれ卑屈になると同時に、自身もまた、寺の経営が「ひとの不幸」という葬儀法要だけで成り立つことに腹の虫がおさまらなかった。——嗚呼、時代が変わろうとも純粋と青年ゆえのこの想いは、他人事とは思えない。それから芝中を卒業し、宗教大学(現大正大学)に進学するも、溢れかえりそうな想いは、突然の実父の死でとうとう「寺をやめる」決意となった。この後の諦春(春太郎)と母の手紙は有名であるが、その一節(『母心』)を挙げてみたい。
葬式をしたり、お経をよんだりする僧分だけを見ているからいやになるのだ。いやではない僧分に自分でなったらどうか。とにかく、母として許すことは出来ない。
涙ながらに母心を知り、手紙を渡してくれた大叔父圓察老師の微笑と「お前たちが仏教を建てなおすのだ」という言葉に再起を誓った。先生の仏教への熱意は、寺院経済の苦悩から出発し、名は「圓諦」と改まるのであった。
葬儀法要のない寺
戦後、圓諦先生はこう振り返る[2]。
私の青年時代の理想は、葬式をせぬ寺、お墓のない寺をつくりたいという、とんでもないことを一途におもいつめていた。
あの頃の先生は、宗教大学で「法然及び門下の経済的研究」を、その後入学した慶應大学で「印度古代村落考」の卒業論文を提出するなど、研究は常に寺院経済を見据えたものだった。その中で、「釈尊も宗祖も決して葬儀法要に明け暮れしてはおられなかった」と研究思索するうちに、先生の純粋と青年ゆえの想いは、徐々に「潔癖」となっていった。それは昭和七年(一九三二年)、三十七歳における仏教法政経済研究所の設立、続く『寺院経済の前途』の出版によってその一端が見える。本書では「葬儀をせぬ寺」「唱導教化をもって僧侶の専務とする寺」の建立を呼びかけ、そのための寺院経済論として「一宗監理案」(寺院財産の経営・所得・消費等を各住職に任せず一つにまとめること)などを世に提起した。全日本真理運動に先立って全国十万の僧侶に向けて寺院改革運動を叫んだことは見逃すことができず、先生の内なる魂の叫びのように感じるのである。
若き二人の台頭
法然上人鑽仰会の〝真野正順〟と全日本真理運動の〝友松圓諦〟といえば、芝中時代からの親友であり、常に互いを刺激する間柄であった。若き二人の浄土宗僧侶は、昭和初期という混迷極めた時代に、仏教の思想と信仰を生かさなければならないと決意し、正順先生は〝法然上人の教え〟を背負い、圓諦先生は〝釈尊の教え〟を背負い、寺を飛び出して社会大衆に立ち向かった。圓諦先生は真に仏教を生かすためには、宗派にこだわらず、出家に関わらず、皆で釈尊(仏法僧宝)に帰一していくことが大切だと考えた。ドラマの舞台裏を少し申せば、圓諦先生の法然上人を鑽仰する気持ちに疑う余地はない、ただ身内である浄土宗に対しては、「潔癖」と思えるほど常に厳しい目をもっていた。
ただの未来の浄土をのみ憧れて放恣の生活に安んぜんとするは仏陀の精神ではないと思う。
圓諦先生の「法句経」翻訳のデビュー作『仏陀の言葉』にはこのように書かれている。当時、寺院財産を私有化し、読経生活によってのみ安穏と暮らす浄土宗侶(先生の出身の三河尾張では「お経地獄」と呼ばれていた)の多さに、釈尊・法然門下として一つ許せぬものがあった。また法然上人が鎌倉時代をして、民衆に与えた弥陀本願の生きる「力」と未来の浄土への「のぞみ」は、今日の浄土教徒が「ただ未来に安逸と幸福とを享楽せんがために浄土参りを欣求する」ことではないと、はっきりと認識していた。真野・友松両先生の歩みに違いはあれど、そこには共に仏教を社会に生かそうとする情熱があったことを忘れてはいけない。
晩年と神田寺と中道精神
昭和二十年(一九四五)、東京大空襲で深川の自坊が焼失した。どう復興するか苦悩する五十歳の圓諦先生は、自身の学問と信仰を貫いて、宗派にとらわれない教化中心の神田寺を開堂した。それは「生きている人々のための仏教」を実現するためであった。戦後を語るものに、神田寺の種々の教化事業や和訳経典として『仏教聖典』等の刊行、全日本仏教協会事務総長としての活躍、生涯続いた「法句経」の講話などあるが、到底語りつくせるものではない。だからほんの少し、経済思想を通じて晩年の先生を語りたい。
青年時代の寺院経済への想いは、戦後の神田寺の精神や寺院改革講座などに引き継がれた。ただ、そこには以前のような「潔癖」さはなくなっている。それは法・教化を中心とする葬儀法要のあり方や、墓参の仏教的意義などを説いているからではない。晩年の圓諦先生が、仏教や寺院の理想を語りながら、同時にありのままの〝自分の本性〟もさらけ出すようになったので、私はそう感じたのである。先生はこれを「泥吐き修行」と呼んでいた。輝かしい業績の反面、年齢を重ねるごとに心身の不調が多くなり、躁うつ病や言語障害を患う期間も十年ほど続いた。時には、ままならぬ心身の変化で家族やその周りを不安にさせたりもした。理想と現実、講話の内容と自身の生活との割り切れなさが、少しずつ泥という名の自己懴悔を吐かせたのだ。
昭和四十七年(一九七二)、NHKテレビ対談で圓諦先生(御年七十六歳)は、「私の言わなきゃならないことはね、この法句経と言うのはなかなか人間味があふれていましてね…」と語っている。私はむしろ先生自身が「法句経」や「人間釈尊」を通じて、年齢を重ねながら、その人間味を深めていったのだと思っている。破天荒な人生を歩んだ先生は、良くも悪くも様々な評価を受けてきた。寺院経済への想いから見えた「潔癖」さは、情熱を失うことなく、「ありのままの寺院をどう捉えていくか」へと変わっていったのだろう。
おわりに
「法然上人の経済思想」の最後の一文は次のように書かれている。
道心あるところおのづから衣食ありときいている。法輪転ずるところ、食輪転ずるとかや、念仏の声するところ、いづれや、衣食の伴わむるところやある。私はそう信じている。
正直いえば、先生の葬儀法要ではなく教化中心といった、宗派を超えた理想の数々(『仏教の未来をひらく』)は、単純にそのまま受け取ることは出来ない。それは浄土宗に復帰した神田寺二世の諦道先生が幼児教育を軸として新しい檀信徒教化を模索し、現主管浩志先生が今に生きる浄土宗寺院として苦闘しているように。ただそれでも、宗門を飛び出しながらも法然上人の中道的な生き方を鑽仰していた圓諦先生が、晩年において、「道心」(上求菩提・下化衆生)はもちろんのこと、「念仏」の声するところに寺院経済がおのづから伴ってくると信じていたことを、私も信じてみたい。先生の宗門に対する愛のある批判もまた法然上人鑽仰であるはずだから。
校正しながら現代の寺院経済の複雑さを思った。例えば布施の捉え方や寺院の課税・非課税問題など。圓諦先生の寺院経済の考え方を、さらに深く学んでいかなければならないと受け止めている。
友松圓諦 プロフィール
ともまつ・えんたい 明治二十八年(一八九五)~昭和四十八年(一九七三)。名古屋市生まれ。仏教学者。神田寺創設者。全日本仏教協会初代事務総長。昭和九年、NHKラジオ放送の聖典講義「法句経」が反響を呼び、同年、全日本真理運動を創設。通仏教的な視点で在家仏教運動を展開させた。昭和二十一年、神田寺を開堂。その後、仏教聖典の編纂、寺院革新の指導に尽力。昭和四十八年、仏教伝道文化賞を受賞。世寿七十八歳。著書多数。
後日談
今回は法然上人鑽仰会となにかと縁の深い全日本真理運動の創始者・友松円諦先生について書かせていただきました。振り返ってみると、鑽仰会の真野先生にとって友松先生は友であり、好敵手(ライバル)であった関係が、法然上人鑽仰会の設立の醍醐味を一味も二味も違ったものにしたのだろうと思います。友松先生に感謝し、そして先生の良い意味での外側(アウトロー)から見る法然上人観、寺院の在り方・経済観というものを、今の私たち浄土宗僧侶は大いに肝に銘じなければならないと思います。
先生のようなカリスマ性を持った僧侶は、この先そうそうに生まれるものではないでしょう。だからこそ、才能も好敵手もいない平凡な私たち(大半の方はそうだと思います。失礼は大目に見てください)は晩年を待たず、若いうちから「泥吐き修行」(還愚)を行い、皆で手を取り合い、円満な僧伽(僧団・教団・寺院)を目指していくべきだと思います。ひとりで「真理」を求めることも大切ですが、皆と共に「泥吐き」することもまた、浄土門徒にとって重要なことだと私は感じています。共生合掌。
[1] 山本幸世編『友松圓諦日記抄』(真理舎、一九八九年)
[2] 友松圓諦『世間虚仮』(誠信書房、一九五九年)傍点は筆者。