【浄土をディグる】1983_4月号 法話/御忌におもう―『近代の法然論』に触発されて―長谷院前住職 大橋英正

1983年4月号御忌におもう―『近代の法然論』に触発されて―長谷院前住職 大橋英正

掲載号

1983年4月号

1983-04

(一)四月の御忌

東京に住んでいる関係で、四月ともなると、十三日から十五日まで営まれる増上寺の御忌法要が、まず頭に浮んでくる。

 管区内から推薦された唱導師拝命の諸大徳がまごころをこめて、懸命に、しかも如法に、報恩の法要を厳修され、それを契機として、これからの一層の精進の誓いを新たにされることである。

下旬になると、京部の総本山知恩院に於ては、十八日より七日間のご法要がつとめられる。 四月七日が宗祖ご生誕、八日が花まつり、の記念すべき日にあたるのと思いあわせて四月は私ども念仏の徒にとっては、まことに意義深い仏道策励の月というべきであろう。

(二)御忌とは

「本来御忌というのは、天皇皇后等の御忌日に行われる法会を指すのであるが、大永四年(一五二四・甲申)正月十八日後柏原天皇が知恩院第二十五世超誉存牛に勅して、「……一七昼夜法然上人の御忌を修せしむべきなり……」と宣うたので、爾来法然上人の忌日の法会に御忌の称を用いることとなったのである。」(「仏教布教大系」、第八巻)

これが「大永の御忌鳳詔」といわれ、爾来知恩院において、毎年正月法然上人の忌日を迎えるごとに、この勅語を奉じて、一七日昼夜、報恩謝徳の大法会が営まれてきたとされる。なお、「知恩院では、十八日の夜、経の紐鮮(ひもとき)といって、僧侶が阿弥陀経を誦しつつ行道を行い……」(西角井正慶「年中行事」)としているが、いまでも、紐解という言葉と行事が残っているものであろうか。

(三)陽暦四月の厳修へ

正月に御忌法会が行われたころは、年初の仏教行事として、京都の人はこの日が一年の遊覧始めであるという意味で、弁当始めといったとされているが、当時は一般の人々にとけこみ、その生活にアクセントをつける節目ともなっていた模様で、御忌詣には衣裳の華美をきそう風があり、これを御忌小袖といって流行のさきがけをなしたと前掲書にある。

着だふれの京を見に出よ御忌詣   几茎

また、「東都歳時記」によると、一月二十五日の項に、「御忌法会 浄土宗円光大師御忌によりて、浄家寺院昨今法会を行う。芝増上寺、一山惣出仕あり。参詣おほし」とある。

それでは、除暦の一月に営まれていた御忌法会が、いつ頃から陽暦四月に行われるようになったものであろうか。

「浄土宗大辞典」の教えるところでは、明治九年(一八七六)時の門主、順誉徹定上人の鹿児島地方ご親化の日程のご都合が、そのきっかけということであるが、 更には、陸海の交通事情がよくなり、全国からの門末道俗の知思院参詣が便利となり、更にまた、かねてから関係者一同の、「御忌法会奉修は、花の四月に」という切なる願いとが重なって、期せずして、その翌十年から実施されるにいたったと伝えられている。

とすると、四月勤修となってから、その後変りがないとすると、いまでは、もはや一世紀以上の星霜を経たことになり、これがすっかり定着したといえよう。

(四)その意義

御忌法会を奉修する意義を考えてみると、いろいろと、いう言葉もあろうけれども、「浄土宗法要集」御忌会別式の諷誦文に要約されてはいないだろうか。曰く、

「……遣法尊崇の念禁じ難く(一)、鴻恩報謝の情切に催し(二)、聊か威徳を称揚し(三)、本誓を荘厳し奉る(結)」

と。わたくしどもは、うけがたい人身をうけ、あいがたい仏の本願にあい、おこしがたい道心をおこし、はなれがたい輪廻の里をはなれ、生れがたい浄土に往生すること、この悦(よろこび)の中のよろこびがいただけること、万徳帰一の念仏の生活に、日々が生かされる、この仏縁の有難さ不思議に思いをいたすとき、宗祖法然上人に対し奉り、上酬慈恩の祈りは当然であり自然の趣くところ、「三業の誠を抽でて、法要を修し、依って以て聊か広大慈恩の万一に酬い奉らん」(御法会表白) こととなる。

しかしながら、「聊か威徳を称揚し(三)本誓を荘厳し奉る(結)」となると、わたくしのような凡愚にとって、甚だ困難といわざるを得ない。

(五) 法然上人鑽仰

過日、峰島旭雄・芹川博通両先生の編著、「近代の法然論」(みくに書房)を成瀬隆純氏より拝受した。氏も亦、両先生のご指導のもと、その仕事の一部をお手伝いなさったようであるが、威徳称揚と本誓荘厳という当面の問題に関して、たいへん貴重なお示しをいただけたと感謝している。以下いささか紹介させていただきたい。

同書の序説で、「近代の法然論」というのはなぜか、ということについて、

「ここでは、日本近代、すなわち明治以降の百余年の間に、どのような法然論が展開されたかを、点と線でたどってみるのである」

とされ、さらに、「法然論をとくに近代に限ったこと」の「その意味とは何であろうか」と続き、次のように述べられる。

「まず、明治以降において、仏数学そのものが近代化され、客観的・実証的な研究が行われるようになった。ただ祖師をうやまうという信仰優先の祖師論が、信仰は信仰として、もっと突っ込んで、祖師の〝人間〟にまで立ち入って、しかも客観的・実証的なデータをもふまえての祖師論へと、変わっていったのである。このことが法然論にも影響を及ぼさずにはおかないことは、明らかである。そして、近代日本の歩みが示しているように、それは、思想の面において、西洋思想の摂取と同化、それに追いつき、追い越すことの営みを抜きにしては、考えられないものであった。このような傾向の中で、つまり、一般に近代思想といわれるもののるつぼの中に投げ入れられて、われわれの法然論はどのような変貌をとげたであろうか」(同書 八―九頁)

との提起をされ、

「一言でいえば、法然論の場面の拡大と重層化である」

としておられ、代表例として、大きく七分類され、それぞれについて、十五の各論が用意されている旨を明らかにされている。

各説第十五の「現代の法然論」においては、次の言葉がある。

「端的にいおう。われわれは現代に生きる。現代の法然論が無かるべからざるゆえんである。そして、その法然論は、近くは近代の法然論をすでに一つの伝統として自己自身の裡に担い、遠くは法然浄土教そのものに直参しなければならない。かかる二重の意味において、われわれはここに、「近代の法然論」を取り上げようとする」(同書二一三頁)

これまで示されたことは、「法然論」ということばで表現されてはいるが、「祖師の〝人間〟にまで立ち入る」ことを含めて考えるならば、威徳称揚・本誓荘厳ということに関して、まことに示唆に富む多くのものが含蓄されていると思う。

明治以降の先覚・先導の諸師が、元祖上人に対し奉り、おのおのが与えられた時と所と諸縁とにしたがって、自己の「全人格」を傾到していかに宗祖に「直参」することを果たされたか。念仏を基底とした宗教生活を、どのように具現・表出されたか。こうしたことを、後凡のわたくしどもが、追跡、確認してそれに倣うことは、元祖上人の立体的にして、かつ「重層的」 なイメージを与えられることになり、宗祖の人絡がダイナミックに、強烈に、より身近かに、われわれに追って来て、わたくしどもの貧弱な念仏生活に、いくらかでも厚みと深みとが与えられることにはならないだろうか。

御忌をおもうについて、報恩行の実践とは、いかに考え、いずれを目標とすべきかの反省に思いをいたしながら、「近代の法然論」に触発されつつ、所懐の一端を述べたが、おのれありさまを改めて省みて、所詮は罪悪生死の凡夫であってみれば、つねに随犯随懴・ 念々称名常懴悔に徹すべからざることを重ねて思う次第である。

関連リンク

知恩院御忌大会
https://www.chion-in.or.jp/special/gyokidaie/
増上寺御忌大会
https://www.zojoji.or.jp/news/1022.html

この記事を書いた人

赤坂明翔

1990年/福島県伊達郡桑折町生まれ。
大正大学大学院修士課程(浄土学)修了。
福島教区中央組無能寺の弟子。開山は無能上人。
創刊当初の雑誌『浄土』に関心を持つ。
ラーメン好き。ヒラメクカエル。