【浄土をディグる】「生」中村辨康を語る/赤坂明翔

中村辨康(なかむら・べんこう)
明治十七(一八八四)年~昭和三十四(一九五九)年。静岡県生まれ。實相寺三十一世。浄土宗教学部長、増上寺執事長。大正十二(一九二三)年より宗会議員となる一方、光明会・共生会等の信仰運動に参加した。また真野正順等と共に法然上人鑽仰会を創立、雑誌『浄土』を発刊した。世寿七十五歳。著書多数。

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昭和11年(1936)当会で発行した『念佛読本』の中、中村辨康師執筆の「生」について

中村辨康「生」

1936年浄土「念仏読本」中村辨康師「生」原稿部

ディグる

意味:探すこと。深掘りすること。英語のdig(掘る)に由来

古いレコードをお店で探し出すことなどに用いられる

人生篇

令和三年二月五日。私は、携帯電話の向こう側の編集長に『浄土』について語っていた。以前より、創刊当初の『浄土』には〝今とは違う何か〟があると感じていたが、編集長は、「今、伝えてくれた素直な気持ちを原稿にして欲しい」と、身に余るお言葉をかけてくださった。『浄土』が好き。だからこそ、その想いのありのままを、ありのままに綴っていきたい。

望みのない人生は、空洞に均しい。

随って望みなき人は一日も生きては居られない筈である。

昭和11年 浄土・念佛読本中村辨康「生」

中村辨康先生の「生」は人生篇から始まる。先生は明治十七年(一八八四)、静岡県清水の實相寺の生まれ、分かりやすく言えば、かの中村康隆猊下の師父である。この「生」が書かれたのは、昭和十一年(一九三六)、御年五十二歳、前年まで浄土宗宗務所の教学部長を務め、布教の最前線に立っていた頃である。

人生に望みがなくては生きてはいけない。ただ実際は、「先ずは金か。名か。之が両大関」だという。金がなければ金に憂い、金があっても金に憂いてしまう。時代が変わってもこの本質は変わらない。だからこそ辨康先生は、いたずらに貪欲のまま生きることが本当の人生なのか、と読者に問いかける。

事は簡単なのである。即ち、人間が本当の人間になること、

人間が本当に人間らしい生活をすること、其事である。

昭和11年 浄土・念佛読本中村辨康「生」

昭和十一年といえば、二・二六事件が起こり、更なる戦時体制に入っていく時期である。国民は不安の真っただ中にいた。そんな折に、世の中には空前の仏教ブームが起きていた。友松円諦師のラジオ放送「法句経」を皮切りに、若者に仏教を呼びかけ、若者が仏教を求めたのである。雑誌『浄土』も人気を博し、法然上人鑽仰会のメンバーは、この現象を「仏教ルネサンス」と呼んだ。

当時の辨康先生は、「人間が本当に人間らしい生活をすること」を、特に仏教の報恩生活や念仏信仰による安心立命の生活と考えていた。ただ「手前勝手な我儘ばかりしてのさばって居る」のではなく、仏教・浄土教的な生き方をするよう、読者に「精神維新」を働きかけたのである。人々の意識を変えることで、幸せで豊かな生活が、個人から家族・社会・国家・世界に広がっていく、そんな立場であったろう。

しかしながら、昭和初期は複雑で混乱した時代であった。浄土宗僧侶も徐々に戦時体制に組み込まれ、「人間が本当に人間らしい生活をすること」が、戦争に突き進んでいく国家に奉公すること、そこに繋がってしまったことは否定できない。

創刊当初の『浄土』を読み返すと、多様性が求められる令和時代には、やはりそぐわない部分がある。ただ同時に、読めば読むほど、『浄土』に込められた信仰の熱気が、私の胸を突いたのも事実である。特に辨康先生は、昭和十年から十三年間、誌上で悩める人々の投稿に答える信仰相談をおこない(掲載しきれない相談は私信で答えていた)、さらに積極的に信仰座談会や信行道場などを開催し、僧俗問わず人格交流を通しながら、人々の信仰を育てられていた。

そこには常に〝生きる〟ことを意識した脈打つ信仰があった。歴史を反省し、歴史に学ぶ。僧侶として大切な何かを紐解きたい。

念仏篇

「お念佛からはじまる幸せ」

令和六年(二〇二四)、浄土宗は開宗八五〇年を迎える。この記念キャッチコピーは、一見とっつきにくい印象を持ちそうだが、私にとっては、「おお! ついに来たか!」と、心の声が漏れだす勢いであった。なぜなら八十五年前、中村辨康先生は「生」の中で、すでに次のように語っているからだ。

私達は念仏に依って次第に明るくなり本当に幸福になり、随って永遠の生命を自覚し、人生最高の幸福を味わうことが出来るのである。

昭和11年 浄土・念佛読本中村辨康「生」

この辨康先生の言葉には妙な力強さがある。

大正七年(一九一八)、御年三十四歳、辨康先生は光明会の別時念仏会に参加し、弁栄聖者に帰依した。血気盛んな三十代前半、生きた念仏信仰を求めて弁栄聖者のもとを訪ねたのであろう。聖者没後は、土屋観道上人の真生同盟、椎尾辨匡先生の共生会にも参加した。

辨康先生は信仰運動を通して得たものを法然上人鑽仰会の事業に活かし、信仰座談会や信行道場では、若者相手にその信仰をぶちまけていたという。極め付きは、待てど暮らせど、誰も浄土宗の信仰入門書を書かないからと、終に自ら『信仰読本』を著したのである。好評に好評を重ねて、後に改訂版が鑽仰会から出版された。

〔念仏して居ると〕自ずから天地の大恩大力大生命を感じて来る。闇い気持ちが薄らぎ、明るい気が伸び上がって来る。それは何故だろうか。

昭和11年 浄土・念佛読本中村辨康「生」

辨康先生の念仏観は間口が広い。大宇宙(法性)には一切のものを生かそうとする綜合的意思が働いている。天地全体に活力が満ちており、それに呼応するよう、人間は誰しも「より永く生きたい(永世)」「よりよくなりたい(向上)」と望んでいる。

一見浄土宗離れした考え方だが、この宇宙的な意思を人格化したのが、阿弥陀仏の本願だという。つまり本質的な意味で、人間の最大欲求である〝永世・向上〟が阿弥陀仏の〝無量寿・無量光〟と完全に一致するから、念仏すると如来の大生命に包まれ、明るくなり、生きる力が湧いてくるというのである。

辨康先生の広範な念仏観をここでは語りつくせないが、読者の中には、浄土宗義として如何なものか、と思った方がいるかもしれない。それは先生も覚悟の上であった。

辨康先生は、『教学週報』(昭和十二年一月一日発行)において、法然上人鑽仰会の立場を語っている。

「鑽仰会は法然上人の人格鑽仰を中心として、読者は浄土宗徒に限らず、宗教を求める全ての人々に呼び掛けている。現代人が一人でも多く法然上人に親しんで頂けるよう、純粋な浄土宗義よりも、広く自由な立場で表現したいと思うのである。されど宗義を無視して、現世主義を肯定しようとは思わない。

現在生活にも重点は置くけれども、それは未来往生の安心立命という意味で、現在生活の充実をいうに過ぎない。異端と非難される箇所もあろうかと思うが、活き活きとした生気と明朗な光を発揮できるのである。諸大徳には赤子の鑽仰会が健康に育つよう御援助と御指導を切に御願いしたい。」

『教学週報』(昭和十二年一月一日発行)筆者要約

昭和初期は貧富の格差が激しく、今よりも切迫感や閉塞感が漂い、一生懸命に努力しても、それが報われない世の中であったかもしれない。だからこそ、念仏を称える信仰生活によって、阿弥陀仏の本願(我々を生かそうとする増上縁力)に引き立てられ、暗い気持ちが明るくなり、理想の浄土へと往き生きることが出来ると、法然上人の念仏を広く大胆に捉えて、辨康先生は説いたのである。これこそ悩める者の念仏で味わう「人生最高の幸福」であり、偉大なる信仰の世界といえよう。

「お念佛からはじまる幸せ」

これは単なる言葉ではなく、念仏の体験をもとに、浄土宗僧侶が一丸となって育て、外に発信していくべき信仰の姿ではないだろうか。かく言う私は毎日悩んでばかりで恐縮なのだが、ここからスタートする我々の背中を、辨康先生は力強く押してくれるに違いない。

さあ皆で進もう、浄土への道を!

『浄土・念佛読本』と師が浄土宗の信仰入門のために書き下ろした『信仰読本』(昭和10年改訂版)

後日談

村田編集長と出会ってから約一年。無名の若手僧侶(三十歳)が、伝統ある月刊誌『浄土』の紙面で、鑽仰会創設メンバーである中村辨康先生を語ったというのは、いささか出来すぎた話で未だに少し震えが来ます。清水実相寺の中村康雅上人をはじめ関係者の皆様にご協力を賜りましたこと、心より御礼申し上げます。

お念仏を称えると阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生することが出来る。そう信じ称える念仏で確約された浄土往生とは裏腹に、目下の現実生活は思うようにいかず確約されたものはなかったと痛感します。浄土への道はそう容易いものではありません。

何度も信仰の門を出たり入ったりとウロチョロして、入れば「阿弥陀さまありがとう」、出れば「阿弥陀こんちくしょう」と、もういい加減にしてほしい自分本位の私がいます。ただそれでもなんとか浄土への道を歩むことが出来ているのは、時に叱咤し時に慰め、そばで求道を助けてくれた方がいたからです。私にとってその第一ともいえる上人が、中村辨康先生でありました。

共生合掌。令和三年十二月 赤坂識

この記事を書いた人

赤坂明翔

1990年/福島県伊達郡桑折町生まれ。
大正大学大学院修士課程(浄土学)修了。
福島教区中央組無能寺の弟子。開山は無能上人。
創刊当初の雑誌『浄土』に関心を持つ。
ラーメン好き。ヒラメクカエル。