戸松義晴(とまつ・ぎせい)
全日本仏教会理事長/東京・心光院住職
1953年東京生まれ。慶応義塾大学文学部卒業、大正大学大学院、ハーバード大学大学院神学校修士課程修了。
浄土宗総合研究所主任研究員。国際福祉大学特任教授。全日本仏教会事務総長(2020年6月より)、世界仏教徒連盟(W
FB)執行役員。
鵜飼秀徳(うかい・しゅうとく)
ジャーナリスト/京都・正覚寺副住職
1974年京都市生まれ。大学卒業後、新聞・雑誌記者を経て2018年にジャーナリストとして独立。「仏教界と社会との接点づくり」をテーマに活動を続ける。著書多数。東京農業大学・佛教大学非常勤講師、一般社団法人「良いお寺研究会」代表理事。京都教区正覚寺副住職。
いま、社会が寺にのぞむこと
本誌編集長(以下、本誌)
全日本仏教会(以下、全仏)は昨年8月、大和証券と共同でコロナ禍における実態把握調査(対象は一般の方々)を実施されましたが、仏教界を取り巻く環境の変化はどのようなものがありましたか。
全日本仏教会理事長・戸松義晴師(以下、戸松)
もっとも印象的だったのは「コロナ禍において寺院・僧侶はどのような役割を担うべきか」(図1参照)の結果です。高い割合を示した項目は、「不安な人たちに寄り添う」や「コロナ禍収束を祈る」。社会不安の中で「宗教にすがりたい」という思いが、自然と湧き出てきた結果なのですね。この結果は菩提寺があるなしに関わらず同水準だったことも特徴的でした。平時での調査で常に上位にくる項目は「葬式や法要などをしっかりと執り行うこと」といった「供養」に対するニーズ。逆に下位は「教義」や「信仰」に関することです。
つまり、世間の人々は「お寺は弔いさえしっかりやってくれればよい。説教くさい教義の押しつけはいらない」と割り切っている。仏教は生活習慣の一部であって、「宗教」とは捉えていないのかもしれませんね。今回の調査でも相変わらず、「コロナ禍ではお墓参りには行けないけれど、収束後はお墓参りには行きたい」という割合は高かった(図2参照)。人々の亡くなった人への想いの強さは変わっていないことが伺えます。しかし、コロナで「心の拠りどころとしてのお寺」が、強く意識された結果が出ているのは、興味深く、そこに私たち僧侶が十分に応えられているか。それが問題です。
鵜飼秀徳(以下、鵜飼)
私の寺でも、それをひしひしと感じることができました。コロナ禍に入って春秋のお彼岸、お盆がありました。春のお彼岸は確かにお墓参りを控える動きが見られましたが、お盆や秋のお彼岸はここ10年で最多の参拝者数でした。私は檀家さんの供養に対する意識の高さに驚くと同時に、「お寺は癒しの場なのだな」と改めて感じました。
戸松
確かに東京都心にあるうちの寺でも、墓参の数はさほど減りませんでしたね。しかし、法事は激減しました。都心部における葬式の割合はもともと「家族葬」が多かったのですが、コロナをきっかけにして、「一日葬」がぐっと増えた感があります。
鵜飼
3月中旬に愛媛・松山市の葬儀会場でクラスターが発生し、29日にタレントの志村けんさんがコロナで亡くなった。そして志村さんのお兄さんがテレビカメラの前で「きちんとした見送り方ができなかった」、「骨も拾えなかった」と訴えました。この志村さんの死をきっかけに、葬送の現場の萎縮が起き始めたように思います。病院で看取りができず、コロナで亡くなった方のご遺体は納体袋に入れて念入りに消毒をして……。ただ、葬式については一日葬に省略しても、やらないわけにはいかない。経済的ダメージはお寺以上に、葬儀社や関連業者が大きいでしょうね。
コロナ禍での寺のスタンスの違い
本誌
そんなコロナ禍にあって、鵜飼さんは全国47都道府県すべてを回ってお寺の取材をされたとか。
鵜飼
はい、お叱りを受けそうですが3月から9月までに全ての都道府県を回って、200か寺近くのお寺を取材しました。すると、コロナ禍におけるお寺のスタンスがよく見えてきました。北陸のある有名寺院の門をくぐった際には、あきれ返るようなことがありました。さほど世間が騒いでいない時期にアポイントメントをとって、4月初頭に取材に行ったのですが、住職から「まさか来るとは思わなかった。この時期に取材なんて何を考えているのだ。京都ではいま何人の感染者が出ているのだ。俺に近づくな」と。私は、「大変な時にすみません。キャンセルのお電話がなかったものですから。これ、お供えください」と手土産を渡しました。
すると、「土産にウイルスが付いていないだろうな」と。私も口が悪いので「お供えですから、仏様には感染しまへんやろ」と京都風にイヤミを返しました。平時でもそうですが、態度に難ありのお寺は一定数あります。もちろん、コロナ禍であっても泰然自若、宗教者然とした立派な態度で迎えていただいたお寺のほうが多いです。コロナでお寺の社会への向き合い方が、浮き彫りになっている印象です。
戸松
コロナ禍においては、本当は仏教界のイメージ改善のチャンスなのですよ。「困った時の神頼み」ではないけれど社会不安の時こそ、死への寄り添いや疫病退散などの祈禱をお坊さんがやらないで誰がやるのだという気構えが必要です。
本誌
死後の世界を説く浄土系、祈願祈禱の真言系など、仏教諸宗派にとっては普段の役割の延長線上であるべき、ということですね。
鵜飼
曹洞宗が6月の宗報に掲載したコロナ影響調査があります。「コロナ禍における葬儀」の項目で、「縮小して実施した」が78%でした。施主さんの要望での仏事の縮小は致し方ないと思います。しかし、「葬儀をしなかった」と回答したのが1%ありました。僧侶のほうから葬儀を拒否しているとすれば大問題です。曹洞宗は全国で1万5000か寺近い寺院数が存在しますから、1%といえども150か寺ほど、葬儀拒否の寺院が存在したことになるのですから。事実、コロナ禍で葬儀拒否の寺があることは私の耳にも届いています。
コロナが収束するまで法務を中断し、葬式をも断っている寺です。これは法務の放棄です。遺族としては、たまったものではないでしょう。肉親を亡くし、弔って寄り添ってほしい僧侶の側から拒絶されるのですから。
戸松
法然上人の説かれる「人間の弱さ」や、自己防衛本能が働いた結果なのでしょうね。感染対策は必要です。しかし、人間なのだから万全はない。僧侶としてのお勤めをちゃんとやったうえで、仮に感染したとしてもそれは致し方ないこと。お寺は「感染対策をしっかりやっているので、安心してお寺を頼ってください」というメッセージを出していかないと、本当に仏教界はダメになると思います。
鵜飼
厳しい言い方をすれば、宗教者が差別する側になっているのです。差別の構図はハンセン病問題とさほど変わりません。ハンセン病が広まった時は、各県ごとにハンセン病患者を出さないような監視体制、本人や家族への差別、強制隔離などを行いました。コロナで感染を恐れるあまり、宗教者が葬式をしない、というのは明らかに差別です。
宗派による対応の違いはあるのか
本誌
戸松さんも全仏の事務総長時代、全国のお寺を回られましたね。印象的だったことはありますか。
戸松
コロナの前は、全国の加盟仏教団体を回っていました。特に災害発生時は全仏が果たさなければならない役割があります。募金をお届けすることがそのひとつです。そこで、いかにスピーディに義援金を送れるかが問題になります。我々は世界仏教徒連盟の仕組みを参考に体制を整えました。世界仏教徒連盟は2004年のスマトラ沖地震での教訓をもとに、災害が起きてから募金を集めるのではなく、常に援助資金をプールしておく仕組みを整えていました。ですから彼らは2011年の東日本大震災や、2018年の山陽・四国地方の豪雨災害では災害発生のわずか数日後にはどこよりも早く義援金を現地に届けることができています。
この世界仏教徒連盟の体制を見習い、全仏でも同様の仕組みを整えたため、熊本にはかなりスピーディに義援金を送ることができました。同時に熊本県仏教会が誕生したことも印象深い思い出です。災害では縦(宗派)のラインでの支援と同時に、現地における横(地域仏教会)のつながりがとても重要になります。
熊本では浄土真宗本願寺派が最大勢力ですが、浄土宗ほか5宗派が集まって仏教会ができました。
本誌
コロナでも地域仏教界が果たす役割は大きいですからね。宗派で動きに違いは?
戸松
相当あります。地域仏教界のように、やはりスケールの小さい宗派のほうが情報の集約も早いし、俊敏に動けます。大教団になればなるほど官僚的になる傾向があります。コロナの実態調査などもいろんな意見や不満が噴出することを恐れて、調査に踏み切れない教団もありました。
鵜飼
コロナ禍での葬儀ガイドラインの作成は、浄土宗と曹洞宗は早かった印象があります。
戸松
浄土宗のガイドラインでは「感染者の葬送については、お骨になった後でも枕経・通夜・葬儀をつとめ極楽浄土へお見送りしましょう」などとハッキリと打ち出せてよかったと思います。
新メディアが変えた社会システム
本誌
過去の感染症と、コロナの違いはなんでしょう。
鵜飼
私はスマートフォンの登場、とりわけSNSの存在が大きいと思います。100年前のスペイン風邪の時や2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の時にはSNSは存在しなかった。今回はデマを含めた様々な噂の伝播、それに踊らされる人々が全国各地で発生しました。
真偽も定かではないニュースに対して脊髄反射的に批判や同調が書き込まれ、社会不安が瞬時にして広がる時代になり、そこに宗教界も飲まれている。
戸松
そもそも法事の自粛や年中行事の中止など、政府から要請などされていませんからね。それこそ、国が「感染症が蔓延するから儀式をやめろ」などと、宗教行為に口を出したら政教分離に抵触します。
鵜飼
だから、各寺院の住職が哲学をもって対応すればいい話なのですよね。住職が思考停止になっているのが問題です。しかも影響力の大きい大本山クラスの寺で拝観停止措置が取られたのはまずかったと思います。
戸松
山門はどこも閉めましたよ。京都ではかなりの寺院が門を閉ざした。
鵜飼
はい、私は地元ですから、現地調査をしました。多くの拝観寺院が山門を閉じました。しかし、清水寺や仁和寺、天龍寺などは境内を無料開放し続けました。一方で、神社はほとんど閉めていません。
戸松
増上寺は山門だけは開けておきました。大殿の中は入れないけれど、正面では手を合わせられるように。
鵜飼
本来、当たり前のことですよね。境内地に参拝者を入れないというのは、その寺が宗教施設ではなく、観光スポットに過ぎなかったということを自ら宣言したようなものです。戸松公益法人としてまずい、のではないでしょうか。
寺院への持続化給金除外のわけ
本誌
政府の持続化給付金が宗教法人は除外となりました。何があったのですか。
戸松
言えることと言えないことがありますが(笑)。言えることがあるとすれば、国会議員や官僚は「お寺や神社はなくなってはいけない」と本気で思っているということ。地域社会が疲弊し寺院がどんどん困窮していく中で、無住になってしまえばいったい誰がお墓を護っていくのか。誰が葬送や祭祀儀礼をやるのか。その問題の大きさを彼らはよくわかっています。
私も最初は永田町にお願いに行きました。あとは議員の人が自発的に頑張ってくれました。特に若い議員はこれを機に勉強し、重鎮に働きかけもしてくれました。官僚も然りです。宗教法人への持続化給付金の適用は、詰められる寸前にあったことは確かです。
しかし、一方で宗教法人に援助することは、憲法89条(※公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない)に抵触します。最終的には憲法89条の中の「宗教上の組織の維持のためには支出してはならない」という部分の壁が厚かったということ。
同じ公益法人でも学校など宗教法人以外の公益法人には給付が認められましたが、そのあたりは確かに釈然としません。
鵜飼
宗教法人に対する持続化給付金は、特に地方都市の困窮寺院のためのものですからね。むしろ、憲法20条の信教の自由を担保するための持続化給付金だと思います。地方から寺院がどんどん消えれば、人々の宗教の選択肢がなくなっていくのですから。
聖職者としての僧侶の問題点
戸松
世間の宗教団体に対する信頼度が低いということなのですよ。国学院大学の石井研士教授が調査した「制度・組織の信頼度」(図3)では、「病院」が89%、「新聞」が88%、「学校」「裁判所」がともに74%などと高位、「大企業」が58%「中央官庁」が41%と中位を占めています。「宗教団体」は15%。かなり信頼度が低い。調査当時はオウム事件の余波にあったとはいえ、「国会議員」の35%の半分以下の信頼度です。
本誌
それは何を意味しますか?
戸松
医師は科学的見地に基づいて診断し、治療すれば治癒します。今は必要に応じてセカンドオピニオンで他の医師にお願いすればよい治療を受けられる。確かな治療を受けた結果、病気が治るという信頼度があります。「お医者様に任せれば、病気が治る」という、代替不可能な絶対的信頼性です。
しかし、宗教者が「あの世がある」と言っても、そもそもエビデンス(証拠)がないわけです。つまり、宗教者の発言の信頼性だけで成立している世界なのです。「お坊さんが言った通り、あの世があったよ」とはならないですから。「信じる者だけが救われる」世界です。
その信じる者が少なくなっているのです。唯一、我々にとって救いだったのは、宗教全体の中で「信頼できる」とするのが、仏教が68%、神道54%、キリスト教40%、新宗教5%と最も高かったことです(図4)。
しかし、仏教は宗教団体と思われていないフシがある。なぜなら、前の話に戻りますが全仏の調査で多くの人が、「教義や信仰はいらない」と回答していますからね。
鵜飼
仏教者は医師や学校の先生、裁判官らと並んで「聖職者」のカテゴリのはず。どうしてそんなに社会的評価が低いのでしょう。
戸松
僧侶が勉強していないからでしょうね。若い僧侶はお寺の中で、甘やかされて育っていますから。医者の家庭でも、医学部や国家試験のハードルを超えなければ医者にはなれない。裁判官も司法試験をクリアするには猛烈な勉強が必要です。
では、各宗の教師になるには?一般教養の試験なんて一切、必要ないでしょ。
鵜飼
必要最小限の教養もないのに、難解な仏教学や宗学が身につくはずがない。昔、僧侶はエリート集団だったはずなのに。
本誌
最後は僧侶にとっては耳が痛い辛口の話となりましたね。このコロナ禍で突きつけられた現実を実感しているのは他ならぬ僧侶だと思いますが、個々の寺院や僧侶がこの災いを乗り越えられるかですね。
本日はありがとうございました。