法然上人鑽仰会の設立とその後の展開―日本全国へ広がった「法然上人鑽仰運動」―

この記事は浄土宗『佛教論叢第66号』に同名研究発表として掲載されています。

はじめに

近代浄土宗における信仰運動といえば、山崎辨栄の光明会、椎尾辨匡の共生会、或いは友松円諦の真理運動などが挙げられ、宗内でも研究が進む中、同時期に起こった法然上人鑽仰会(以下、鑽仰会)は、月刊誌『浄土』の発行以外に、これまで具体的なことが明らかにされてこなかった1

そこで本稿では、鑽仰会の起こした「法然上人鑽仰運動」が、全国の信仰運動にまで発展した実態を明らかにし2 、現代浄土宗の布教活動のあり方を考える一助とすることを目的とする。検討にあたり新出資料の機関紙『法然鑽仰 3』も活用していきたい。

一、法然上人鑽仰会の設立経緯①

鑽仰会は真野正順を創始者とし、昭和一〇年(一九三五)四月一三日の浄土宗綜合教化大会閉会後の発会式(華頂会館)と結盟宣誓式(御廟前)をもって正式な設立とする。しかし、会誕生の萌芽は昭和九年のいわゆる「宗教復興(仏教側から仏教復興)」に端を発している。仏教復興4 とは、「昭和初期日本の仏教ブーム」であり、三月一日より始まった友松のラジオ放送「法句経講義」がきっかけというのが通説である。

その後、世間の仏教復興の声を受けて友松は高神覚昇らと共に超宗派の全国真理運動を計画・組織し、九月一日に発足させた。その中心メンバーとして真野が参画していたことはあまり知られていない。その一方、浄土宗内では「仏教復興」に対して如何なる対策を講じていたのだろうか。佐藤賢順は、『浄土』創刊号において、真野正順・岩野真雄・友松円諦と共に、八月に山中湖畔で仏教復興の将来について議論をしたことを追憶し、続いて次のように述べている。

秋になると再々の会合が催された。学界の権威・中堅、教界関係の長老・耆宿、社会教化の第一線に立つ人々など、御多忙の中を代り代り参集を願って、「何を為すべきか」に就いての具体的な協議を進めた。その結論が法然上人鑽仰会の設立である5

当時、仏教復興に対する既成教団の中、浄土宗内の色々の活動を除いて殆ど表面化していないと評されていたが 6、実際に確認できる重要な動向を以下に挙げてみたい。

㈠仏教復興対策懇談会7(九月一七日、於明照会館)
㈡仏教興隆対策懇談会8(一〇月四日、於明照会館)
㈢仏教復興対策協議会9(一〇月六日、於内幸町東洋ビル内「つくば」)

㈠は、〇真野正順・〇友松円諦・〇長谷川良信・中野隆元・〇木村玄俊・〇佐藤賢順・藤井実応・〇栗本俊道・〇岩野真雄・藤本了泰、宗務側から野上運外・中村辨康・里見達雄・杉浦演順が出席。浄土宗として鑽仰会を組織することや、その伝道方面などが話し合われ、小委員(〇印)が更に検討することとなった。

㈡は、矢吹慶輝・石塚龍学・大野法道・大島泰信・石井教道・中島真孝・原田霊道・佐藤賢順、宗務側から野口周善・中村辨康・杉浦演順が出席。法然上人を社会に紹介するため、鑽仰会を設置することで意見が一致した。

㈢は、東京仏教界中堅が集まり、浄土宗から中村辨康・真野正順・友松円諦・佐藤賢順が参加。中村から浄土宗では目下種々対策を試みているとの発言があった。以上のことからも、浄土宗内では仏教復興の対策として鑽仰会設立に向け動いていたことが分かる。さらにその中心には真野以外に、常に中村辨康がいた。

中村は光明会・共生会・真生同盟の信仰運動に参加すると共に、昭和六年より教学部長を務め、「布教方針綱領」を打ち出すなど常に宗門布教界の中心にいた人物である。その中村について真野は「真先きに共鳴され10 」というように、仏教復興に対する真野と浄土宗務所側の中村の思惑が一致したことで、鑽仰会設立の計画が始まったと見ることが出来るのである。

二、法然上人鑽仰会の設立経緯②

昭和九年一〇月七日、『教学週報』第三五八号にて鑽仰会設立の一報が伝えられ、会では資金集めに奔走する中、指方立相と発会式に関する二つの大きな問題が起きた。

まず一つ目は、第一回真理運動講演会(一二月一四日、於京都市岡崎公会堂)後の座談会における友松の指方立相問題である。友松は在家信者との問答の中で指方立相の浄土を否定する旨の発言をしたとされ、特に浄土真宗内では問題が紛糾して11 、真理運動の同人であった梅原真隆が脱退する事態となった。浄土宗内でも豊島青年同盟が二回に渡る決議文を浄土宗務所に提出するなど一部問題が表面化したが12 、友松が翌年二月五日、宗務所に「宗意に背き宗教的体験としての浄土は否定しない」旨の回答をし、宗務側は注意を促すものの大きな問題とはしなかった 13

一方で鑽仰会と真理運動の関係に影響を与えることとなった。つまり真野が真理運動の同人となり、友松もまた鑽仰会の同人となっていた関係性が解消され、真野が事実上真理運動を脱退する形となったのである 14

この状況に対して鑽仰会は真理運動の別動隊か、それとも浄土宗内のアンチ友松運動・真理との対立運動か、といった世論があったが、真野は「一切の目を閉ぢて本年度仏教々団復活に一路只鑽仰会に邁進致します。内に向つて或は弁解し或は云々する時期ではない」と、友松の言動で仏教に興味を持った社会大衆が置き去りにされるのを厭い、自身はただ鑽仰会に専念する立場を表明している 15

戦後、竹中信常は、真理運動を離れた真野が友松の思想信仰に対してことさら法然上人鑽仰を標榜したことは、真野自身の浄土教信仰に対する確信的態度の表明にほかならない16 、と述べているのは的確であり、奇しくも指方立相問題によって鑽仰会設立が浄土宗僧侶の支持を得て加速していったといえるだろう。

二つ目は、浄土宗綜合教化大会準備における発会式問題である。この教化大会は山下現有一周忌追恩記念として宗門教化の全面的刷新を企図するもので、伝道部・青年部・児童部・教育部・社会事業部の五部門に分かれて協議し、記念大講演会や全浄土宗青年会聯盟結成大会などを併修した。その準備委員会(一月一九・二〇日、於明照会館)にて、鑽仰会の発会式を巡り東京と関西で意見が分かれた。東京側の真野・中村ら有志僧侶によって計画・組織された鑽仰会に対して関西側が非常に共鳴し、教化大会の成果(決議実行の責任を負う)として会を誕生させる提案をしたのである。

これを東京側が嫌い、一宗や本山中心ではなくあくまで有志僧侶が自腹を切る血盟的な覚悟をもった運動であるとの態度を表明し、その後、真野と関西側の懇談により教化大会の閉会後に発会式を行うことで落着した17 。鑽仰会では独自に発会式(二月)を開催する予定も当初あったが、有志僧侶の寄付金は「法然上人の人格に敬仰する赤心の顕れであるから一銭でも無意義に費したくない」という幹部の意見で中止していることからも18 、発会に対する並々ならぬ覚悟を伺うことが出来るのである。

三、理念・事業内容・支部設立について

鑽仰会は真野・中村ら有志僧侶によって設立されたが、浄土宗内での立ち位置は宗門の外郭団体というのが正確であろう。昭和一〇~二〇年度まで(一六・一七年度は『宗報』で確認出来ず)宗門から補助金が支出され、また「布教方針綱領」(一〇~一二年度)には「法然上人鑽仰運動の促進」、「浄土宗宗制」(一六年)には鑽仰会の項目が明文化されており、事務所を明照会館に置く鑽仰会は宗務側と密接な関係にあったといえる。

宗務内外を問わず大勢の人物が関わっており、その全てを明らかにするのは困難だが、設立当初(一一年一月時点)の本部員を挙げると、常務理事江藤澂英・中村辨康・真野正順、主事佐藤賢順、財務赤尾光雄、編集部道瀬幸雄・佐賀一海・一瀬直行・井原文雄、庶務部金孝敬・永田文猷、組織部佐藤良智・中村康隆・辻重光、『法然鑽仰』東慈道らであった19 。その他、総裁(知恩院門主)や会長(宗務総長)、理事、評議員なども整備された。

次に鑽仰会の理念について見ていきたい。鑽仰会は何よりも第一に法然上人の人格を中心に据えた。その理由として真野は、今般の宗門を中心とした宗教運動は、宗義に囚われて活動の自由や分野、会員の範囲が限定されるが、これに反して一人格を中心とした団体は、それらの領域から開放され、凝固な宗門意識を破壊し、社会人に新鮮味のある活動分野を提供できると説いた 20。中村も、法然上人の偉大さを世の中に紹介し、この大きな人格に触れて知らず知らずの内に、本当の念仏の信仰に入らしめたいという熱意から会を起こしたと発言しており 21、宗義よりも人格、即ちまず法然上人を世に知らしめることが根本にあった。

そして理念実行のための事業について「規約抜粋 22」に、面白くて知らず知らずに信仰が得られる大衆雑誌『浄土』・機関紙『法然鑽仰』の発行(会員に配布)、文豪による大衆読物「法然上人」・学者による平易な「法然上人の信仰」の出版、「法然上人劇」「大講演会」「信仰座談会」の催物などが記されている。

どれも間口の広い活動であるが、特に注目したいのは文豪の法然上人鑽仰である。同九年、大東出版社(創設岩野真雄)が作家による『仏教聖典を語る叢書』を刊行するなど、当時文豪が好んで仏教関係の小説や戯曲を書いたことも仏教復興を支えた一面であった。そのため『浄土』にも多くの文豪が寄稿しているが、特に佐藤春夫23と吉田絃二郎24は鑽仰会が機縁となり法然上人への思慕を深めた人物であった。佐藤春夫著(挿絵小杉放菴)『掬水譚』の刊行も、鑽仰会の尽力によるもので、出版記念会には文壇・宗門から四六名が参加し盛大に開催されたことは、会の歴史として忘れ得ぬことである25

また鑽仰会が特に重要視したのは支部であった。会員を普通・特別・維持に分けると共に、寺院や家庭などのどこでも会員五名以上で支部を設立することが出来た 26。支部とは鑽仰会の事業を支える「細胞組織」で、「法然上人鑽仰運動」の基礎となるものであるため、「一寺院一支部」の旗印のもと支部設立を全国に呼び掛けた。

本部は支部に対し、例会(『浄土』中心の信仰修養など)の開催や、支部が集まって聯合支部を創設することを勧め、逆に支部が講演会・座談会・別時念仏会を開く場合は本部から講師を派遣するなど支援を行った。では実際の成果はどうだったかというと、『法然鑽仰』第一号(筆者未見)が発行されるや否や、全国の法然上人鑽仰熱が嵐の如く巻き起こり、入会申込書や激励の言葉が毎日三・四〇通以上も事務所に殺到し、支部設立の知らせやの他にも支部を設置したいから申込書や機関紙一〇〇部送れといった要望も次から次へと届いたのである27

設立支部の発表と各支部の活動報告は、随時『法然鑽仰』『浄土』に掲載され、同一一年一月(発会九ヶ月目)には会員数一万一千人、支部数は三五〇を数え、同一二年二月(発会一年一〇ヶ月目)には、『浄土』発行部数三万冊、会員数は一万五千人、支部数は五〇〇を突破した28 。特に鹿児島支部(鹿児島市・主任小橋麟瑞)や本郷浄き友の会支部(文京区・主任橋本楽栄)などの在家中心の支部の活躍が目覚ましいことや、誌友会・浄土読者の会といった支部を越えて交流会を開催していたことも特徴である。支部は日本国内のみに留まらず、満州・朝鮮・ハワイなどにまで及び、「法然上人鑽仰運動」は飛躍的な発展を遂げていったのである。

昭和9年3月友松のNHKラジオ放送「法句経講義」の放送開始。
8月山中湖畔にて真野・岩野・友松・佐藤が仏教復興の将来について議論。
9月全国真理運動開始。友松・高神のほか真野・梅原・松岡・江部・山辺らも参画。
教学部主催で仏教復興対策懇談会を開催。鑽仰会の組織や伝道方面を議論。
10月『教学週報』にて鑽仰会設立の一報が伝えられる。
12月真理運動講演会(岡崎公会堂)の座談会にて友松の指方立相問題が勃発。
豊島青年同盟が浄土宗務所に指方立相の問題に対する第一回決議文を提出。
昭和10年1月仮事務所を天光院内に開設。
教化大会準備委員会にて鑽仰会の発会式を巡り東京・関西で意見が分かれる。
2月機関紙『法然鑽仰』創刊号を発行。各地に絶賛の嵐が巻き起こる。
事務所を明照会館に移転。開所式を挙行。
3月第36次浄土宗定期宗会にて中村が鑽仰会の趣旨について答弁を行う。
4月教化大会閉会後、発会式(華頂会館)と結盟宣誓式(御廟前)を挙行。
5月月刊誌『浄土』創刊号を発行。
略年表 鑽仰会設立までの大まかな流れ

四、戦時下における変化

鑽仰会は、昭和一二年を契機に変化し始めた。まず六月より真野が健康上の理由により実務の第一線から退き 29、七月の日中戦争勃発によって『浄土』が宗門の銃後の活動としての役割を担うことになるのである。同一三年二月、浄土宗務所臨時事変部は「病院慰問白衣の勇士に法味を捧げよ」の言葉と共に、全国陸海軍病院に毎月三〇~五〇部の『浄土』を送るため、各寺院・檀信徒に寄付金の募集を始めた30

各地で慰問袋に『浄土』が入れられ、その結果「慰問浄土」の名称が定着した。『浄土』の誌面も、戦地の体験を語るものや、国民を鼓舞するものなど時局関連のものが多くなり、同一九年、日本出版配給株式会社のもと出版社・雑誌界の企業整備(統廃合)が行われた際に、『浄土』が職能雑誌として廃刊を免れたことは、鑽仰会の「慰問浄土」の活動が評価されたからであった。

他にも本部員の出征や各支部の活動の減少によって、戦時下の鑽仰会は、徐々に時代の余波を受け、「法然上人鑽仰運動」を「慰問浄土」中心に変化せざるを得なかったのである。

おわりに

鑽仰会は浄土宗の仏教復興に対する一つの回答であり、社会に法然上人を打ち出す祖師信仰の運動であった。宗義よりも人格を中心に置くことで、間口の広い布教活動が出来、返ってそれが念仏信仰に繋がることを証明したことは、近代浄土宗の信仰運動を考える上で見逃せない要素となった。

ほぼ同時期に起こった浄土宗僧侶の手による鑽仰会と真理運動は、その実態は似て非なるもので、前者は「法然に還る」、後者は「釈迦に還る」運動だったが、その根底には指方立相の浄土を巡る思想信仰の相違が進むべき方向を分けることになったといえる。

一方、戦時下の『浄土』が戦争協力の一端を担ってしまったことは反省すべき点であり、さらなる検証も必要であろう。しかしながら、日本全国に広まった「法然上人鑽仰運動」は、現代浄土宗の布教活動を考える上で示唆に富むべきものであり、さらに言えば、現在まで存続している鑽仰会が出版活動と年一回の公開講演会に留まることなく、信仰修養の場を設けられる「法然上人鑽仰運動」となることを期待したい。

  • 例えば、『浄土宗史』(浄土宗、一九六五年)や『浄土宗布教伝道史』(同上、一九九三年)などを参照。
  • 鑽仰会は現在まで存続する団体であるが、本稿で扱う「法然上人鑽仰運動」の範囲は昭和九年~二〇年までとする。
  • 機関紙『法然鑽仰』(発行元・法然上人鑽仰会、発行兼編集人・佐藤賢順)は、昭和一〇年二月一二日より毎月発行され、その後廃刊となった。発行期間は不明だが、現在、筆者並びに鑽仰会事務局で確認しているものは二・八・一二・一四号であり(令和三年九月時点)、今後さらなる発見によって、その全貌解明が期待される。
  • 仏教復興に関して、越智道順『「宗教復興論」概観』(仏教法政経済研究所、一九三四年)や大谷栄一「昭和初期日本の仏教ブーム」(『現代宗教』、二〇〇五年)を参照。両氏ともに真野正順の仏教復興論について言及している。
  • 佐藤賢順「法然上人鑽仰会の経過」(『浄土』創刊号、一九三五年、八〇頁)。
  • 越智道順『「仏教復興論」概観』一一頁。
  • 『教学週報』第三五六号、『宗報』第二〇五号。
  • 『宗報』第二〇六号。
  • 『中外日報』第一〇五四一号。
  • 真野正順「中村氏のこと」(『浄土』第二五巻第九号、一九五九年、二八頁)。
  • 『宗教時論』第一〇年第三号(浄土真宗系の新聞)において、指方立相問題の特集が組まれ、座談会席上の会話や諸氏の意見が掲載された。しかし本稿では友松の具体的な浄土教思想やその発言の真意については言及せず、鑽仰会と真理運動の比較を含め今後の検討課題としたい。
  • 『教学週報』第三六八号・第三七二号、栗本俊道「果たして解決したか―友松氏の指方立相問題―(上・下)」(『教学新聞』第八〇六号・第八〇七号、一九三五年)。
  • 「第三六次浄土宗定期宗会議事録」(『宗報』第二一四号別冊)、『仏教年鑑 昭和一一年版』(仏教年鑑社、一九三五年、二二八頁)、『中外日報』第一〇六三七号。指方立相に関して、昭和五年に望月信亨による同様の問題が生じたが、当時執綱の渡邊海旭は特に処分を与えることはしなかった(『宗報』一六六別冊、望月信亨「余の指方立相問題に就て」『浄土教報』第一〇八六七号)。
  • 友松円諦は浄土宗僧侶としての立場上、その後も鑽仰会の理事を務めるなどしている。
  • 『中外日報』第一〇六四四号。
  • 竹中信常「鑽仰運動の展望」(『浄土』第四六巻第二号、一九八〇年、六〇~六三頁)。
  • 『教学週報』第三七一号、『中外日報』第一〇六二三号・第一〇六二四号・第一〇六八四号。
  • 『教学新聞』第七八四号。
  • 『法然鑽仰』第一二号。
  • 『教学新聞』第七八四号。
  • 「第三六次浄土宗定期宗会議事録」。中村辨康は鑽仰会の信念について、「鑽仰会の立場から」(『教学週報』第四五九号、一九三七年)にて詳述しているので参照していただきたい。
  • 「法然上人鑽仰会規約抜粋」(『浄土』創刊号、七頁)。
  • 『観無量寿経』(「仏教聖典を語る叢書」第四巻)の執筆を契機に念仏信者となった佐藤春夫を招き、緑風荘にて鑽仰会主催の交流会を開催した。真野正順と中村辨康の熱心な説得により、佐藤は「掬水譚」を執筆し法然上人への信仰を深めた(『教学週報』第三七一号、『教学新聞』第七八六号、「佐藤春夫と文学を語る」『教学週報』第三八三号)。
  • 鑽仰会から吉田絃二郎に法然上人の戯曲を依頼した関係により、妻明枝の葬儀を同会が執り行った。その際、妻の死という悲嘆の中で非常に感激し、一層法然上人への思慕を深めることとなった。(『浄土』第三巻第八号、吉田絃二郎「弥陀への善知識! 亡き妻を憶ふ」『教学週報』第四八五号)。
  • 『法然鑽仰』第一四号、『浄土教報』第二一二四号、『教学週報』第四二〇号。
  • 『浄土』と『真理』の誌面構成、組織化における会員制や本部・支部設立など鑽仰会が真理運動と類似する点が多いのは、当初、真野が真理同人であったことに起因すると考えられる。真理運動に関して『全日本真理運動とは何か』(全日本真理運動本部、一九三九年)を参照。
  • 「俄然・捲き起った全国の鑽仰会熱 本部は受付に忙殺」などの見出しが躍っている(『法然鑽仰』第二号)
  • 鑽仰会の全盛期は会員三万人(『浄土』第七巻一〇号)、支部数は六〇〇以上(『教学週報』第五九六)あったと思われるが、現在、筆者並びに鑽仰会事務局で支部名を把握しているのは約二三〇ヶ所程である。今後、支部一覧や支部の活動を記した鑽仰会の年表は、月刊誌『浄土』やホームページ「じょーど」等で公表する計画である。
  • 真野正順の後を受けた中村辨康を中心に、『浄土』の発行が戦後の混乱期まで続けられたが(昭和二〇~二一年一部休刊)、昭和二三年、中村の引退を機に再び真野の手に『浄土』が帰えることとなった(『浄土』第一四巻第七・八号)。
  • 『浄土』第四巻第三号、『宗報』第二四六号別冊。

附記、本稿作成にあたり法然上人鑽仰会並びに『法然鑽仰』捜索にご協力を賜りました関係各位に記して感謝申し上げます。


この記事を書いた人

赤坂明翔

1990年/福島県伊達郡桑折町生まれ。
大正大学大学院修士課程(浄土学)修了。
福島教区中央組無能寺の弟子。開山は無能上人。
創刊当初の雑誌『浄土』に関心を持つ。
ラーメン好き。ヒラメクカエル。