昭和初期の浄土宗青年会運動について―全浄土宗青年会聯盟を中心として―赤坂明翔

この記事は浄土宗『佛教論叢第67号』に同名研究発表として掲載されています。

はじめに               

 全国浄土宗青年会(以下、全浄青)は令和二年(二〇二〇)に五〇周年を迎え、益々全国各地の青年宗侶による活躍が期待されるなか、本稿ではこれまで語られてこなかった戦前の浄土宗青年会に焦点を当て、別角度から浄青の歴史を振り返っていきたい。

一、浄土宗青年会の様相

 現在の仏教青年会組織について渡辺章悟氏は①大学仏青、②宗派仏青、③地域仏青の三種類に区分しており[1]、全浄青が②宗派仏青(既成教団の青年僧侶による宗派の仏教青年会)であることは言を俟たないが、ここでさらに宗派仏青を宗侶のみの青年会と僧俗一体の青年会に分けてみたい。前者は現在の全浄青に当てはまる。全浄青は昭和四五年(一九七〇)に浄土宗開宗八〇〇年を期し浄土宗青年連絡協議会として結成、同四九年に全国浄土宗青年会と改称された。「浄土宗青年会規程」(宗規第五七号)によれば、「浄土宗青年僧侶及び寺庭の青年を会員として組織」され、寺庭とあるが現状を考慮すればほぼ宗侶のみの会といえるだろう。後者は今回取り上げる同一〇年(一九三五)に設立した全浄土宗青年会聯盟(以下、全浄聯)である。「浄土宗青年会規程」(教令第一五号)に「寺院住職又ハ教会所主任ハ其檀信徒ヲシテ青年会ヲ組織セシムべシ」とあるように、僧俗一体の青年会で構成される。両者はどちらも浄土宗公式の全国青年会組織であるにも関わらずその様相は全く異なるといっていい。それを踏まえた上で全浄聯設立までの流れを見ていきたい。

二、全浄土宗青年会聯盟設立までの流れ

 浄青がいつ頃から結成され始めたのか特定することは難しいが、明治三〇年(一八九七)の浄土宗青年団[2](島根県)や同三八年の浄土宗青年会[3](東京都)が比較的早い時期に発足したと考えられる。それから明治後期から大正年間にかけて徐々に宗侶有志や僧俗一体の青年会が設立され、昭和に入ると全国浄土宗青年聯盟一新会[4]と浄土宗青年聯盟[5]を筆頭に宗侶有志の青年会が台頭してくる。一新会は東京本部、大阪・京都支部を中心に、浄土宗青年聯盟は東京を中心に北海道浄土宗青年聯盟・青森一到会・北信昭和会・静岡浄土宗青年聯盟・三河浄土宗青年聯盟・京都同塵会・全九州浄土宗青年聯盟等と足並みを揃えながら種々活動をおこなうも、一新会と浄土宗青年聯盟の対立構図は払拭されず各活動も下火になり[6]、ついに全国を統一した青年宗侶の会が出来ることはなかった。その一方で、明治二五年に大日本仏教青年会、昭和六年(一九三一)に全日本仏教青年会聯盟といった宗派・僧俗の垣根を超えた全国の仏教青年会組織が結成され、浄土宗からも渡邊海旭や大村桂巌らが積極的に参画していた。

浄土宗において僧俗一体の青年会運動が組織的に展開し、全浄聯設立のきっかけとなったのは、昭和七年四月に華頂会館にて開催された法然上人降誕八〇〇年記念の青年信徒大会である。当日は青年信徒約千百人が参加し、「我等青年ハヨキ教徒タルコトニ依リ、祖国ノヨキ国民タルコトヲ期ス」「我等ハ先ヅ爾後一ヶ年ヲ画シ全国青年教徒ノ一宗的組織ヲ期ス」等が決議され、浄土宗青年聯盟の規約案が作成された[7]。これにより関西の浄土宗寺院(住職と檀信徒)を中心に青年会の設立が増加していき、それらを取りまとめる形で滋賀・京都・奈良・大阪[8]・兵庫にて浄土宗青年聯盟が誕生した。その後、同九年七月、第二回汎太平洋仏教青年大会の浄土宗関係者慰労会の席上にて各地の浄青の報告が終わると、突如小林大巌が浄土宗仏教青年聯盟の統制機関を設置すべしとの提議をして満場一致で可決した。翌日の第一回準備委員会にて浄土宗青年教徒聯盟と命名され、準備事務所を明照会館に置くことが決まり、一寺院一青年会を目標に浄青運動拡大を図ることとなった。その後、準備委員会では既に関西方面には浄土宗青年聯盟があることから、まず東部(静岡以東)の青年教徒聯盟を結成することの準備が進められ、同年一二月、伝通会館にて東部浄土宗青年教徒連盟が発会した。これで東西統一の浄青運動の機運が高まり、同一〇年四月、浄土宗綜合教化大会第二日目の全浄土宗青年会聯盟結成大会(於華頂会館)にて正式に全浄聯が設立した。この時の本部役員は(総裁)岩井智海、(総務)野上運外、(理事長)中村辨康、(理事)大村桂巌・野村在定・杉浦演順・島野禎祥・鹽竈義詮・細井照道・稲垣真我・長谷川順孝・小林義道、(評議員・関東側)兼岩静衛・三木正平・岩野真雄・浅野嘉雄・堀定正・高梨宏・長谷川良信・黒澤覚堂・大橋俊孝・安富賢亮、(関西側)和辻覚・深澤霊道・島崎熊雄・野島宣道・田中龍定・三品吉兵衛・秦隆真・水原陽一郎、(主事)栗本俊道であった。これまで浄青運動の中心であった関西聯盟から事務一切と機関紙『青年浄土[9]』の発行を全浄聯の本部事務所(明照会館内)が引き継ぎ、同一一年八月、全浄聯理事会の要望により宗会の協賛を得て浄土宗務所より浄土宗青年会規定(教令第一五号)・浄土宗青年会規定施行細則(教令第一六号)が発布された。全浄聯は浄土宗統制下に置かれ、事務所は浄土宗務所内に移転した。教令発布により「青年会ヲ組織セシムべシ」「全浄土宗青年会聯盟本部ハ青年会教区聯盟及地方聯盟ノ聯絡統制ニ当ル」との指令が出されたことで、従来の自然発生的な浄青運動から一宗的運動となり、全浄聯を支えていた東西の浄土宗青年会聯盟は従来の規則の変更が余儀なくされ、両聯盟はほどなく解体、地方聯盟として西部は同一二年五月に近畿浄土宗青年会聯盟、東部は同一三年五月に関東浄土宗青年会聯盟と改組された。

三、全浄土宗青年会聯盟について  

全浄聯は「一寺院一青年会」をモットーに、「我等青年ハ法然上人ノ人格ヲ景仰シ、念仏生活ヲ体験スルコトニ依リ、人類ノ福祉ニ貢献センコトヲ期ス(綱領)」と浄青の使命を定めている。青年とは青年宗侶というより青年檀信徒[10]の方がその意味合いが強く、そこに僧俗一体の青年会の所以がある。『浄土宗青年会指針』に次のように述べられている。

 要は青年の為めの会といふことを第一とし、寺院の勢力とか、住職の名誉とか、又は排他的宗我心に陥らざる、真に青年の為めの浄青といふところに、注意して指導方針を定めることが緊要である[11]

つまり浄青は宗門における青年檀信徒への教化・信仰運動ということである。全浄聯は使命遂行のため寺院(類似組織を含む[12])の住職と檀信徒の青年会、教区内の青年会との連携を図る教区聯盟、さらに教区聯盟を統括する地方聯盟をもって組織された(図1)。現在、筆者が確認出来た地方聯盟は関東・近畿、教区聯盟は埼玉・東京・千葉・神奈川・静岡・三河・尾張・伊勢・加能越・滋賀・京都・奈良・和歌山・大阪市・摂河泉・兵庫・出雲・山口・(日豊)・長崎である。聯盟に関して神奈川教区の興味深い事例がある。昭和一一年五月、久保山光明寺にて浄土宗神奈川教区青年聯盟が発会した。聯盟規約には「本教区在住ノ浄土宗青年僧侶ヲ以テ組織ス」と定められ、これが全浄聯の方針とは異なっていたことから本部主事の栗本俊道は『神奈川青聯』にて、

しかし今は僧門教徒に限られたる聯盟である様だが、更に一歩進めて在俗信徒の青年に呼びかけ、信徒青年の結成を促して、全浄青の傘下に重要なる役割を持つやうになってほしい[13]

との言葉を贈っている。その後、神奈川教区は同一四年九月に教区内浄青一七団体を以て神奈川浄土宗青年会聯盟を結成した。以上のことからも全浄聯本部が僧俗一体の青年会の徹底を図ろうとしていたことが分かる。また全浄聯の組織の特徴として女子浄土宗青年会がある。西部浄土宗青年会聯盟の肝いりで同一一年四月に華頂会館にて浄土宗女子青年大会が開催された。関西及び東京の既設浄土宗婦人団体と宗門女学校生徒代表ら約八百名が集まり、女子浄青聯盟結成の件が議決され、その後、京都浄土宗青年会聯盟女子部[14]を筆頭に各地で女子青年会が設立されていった。

 次に浄青の活動についてみていきたい。全浄聯本部の事業について施行細則に「一、青年会運動ノ指導、振作、助成 二、教区聯盟地方聯盟ノ聯絡統制 三、機関紙ノ発行 四、其他必要ナル事項」と定められてる。具体的に浄青幹部講習会や各地の教区講習会にて新科目・浄青指導講座の開設、各聯盟の連絡統制として各地方会員名簿(会名・代表者氏名住所・所属聯盟・会員の住所と氏名と職業・年齢を記載)の提出を呼びかけ会員カードの整理を行った。また『浄土宗青年会指針』『青年浄土』の発行、『宗報』に浄青ニュースの掲載、他にも浄青運動の象徴として全浄土宗青年会聯盟の歌(里見達雄作歌・山田耕筰作曲)や本部聯盟旗、浄青団服(セビロ型上下・青味国防色)、浄青徽章(黒七宝地に金字で「浄青」)、浄青会員必携の浄青手帳[15]を作製した。青年会の活動について『浄土宗青年会指針』では、①修養的施設事業(聖典研究会・信仰座談会・宗教講演会・参拝・法要参列・法要等に於ける奉仕作業・音楽と礼拝・日曜教園教師奉職等)、②体育的施設事業(卓球・野球・弓道・剣道・柔道・水泳・テニス・バスケ・バレー・キャンプ・ハイキング・登山・スキー等)、③社会教育的施設事業(小図書館・職業指導・人事相談・生活改善研究会・社会奉仕部等)、④趣味的其の他付随施設事業(書道会・音楽会・短歌会・英語会・演劇会・会誌発行・会員勧誘運動等)の具体例を挙げている[16]。これら活動を熱心に行っていた青年会として、例えば東京―西信寺青年会(西信寺・栗本俊道)・サンガ・アソカ(伝通会館・木村玄俊)、京都―葵仏教青年会(平安養育院葵会館・秦隆真)、大阪―大光寺青年会(大光寺・三枝樹正道)・念佛寺青年会(念佛寺・伊藤孝重)・無量寿青年会(光正寺・中明教尼)等がある。もっとも戦前の浄青は『青年浄土』に近畿版が掲載されるほど専ら関西が中心であることに間違いはなかったが、ここでは西信寺青年会と大光寺青年会を取り上げたい。

 西信寺青年会は昭和一二年一月に同寺念仏会を母体として設立、年齢およそ三〇歳までの会員で構成された(一四年の時点で会員五一名)。会長栗本俊道をはじめ、幹事には檀家で戦後の社会福祉の分野で活躍された重田信一がいたことも注目される。会場は西信寺を使用し、事業基金として毎例会ごとに出席者より一〇銭宛集め運営していた。事業としては①例会(おつとめ・別時念仏・講義・座談会)、②仏教講座、③その他の催(暁天念仏会・浄土帰入会・新年会・春のハイキング・初夏の映画会・浄青女子の集い・夏期暁天修養会)があり、重田は寺で線香臭いことばかりするのではなく明るく和やかな集団を作り、その雰囲気の中で毎日を送ることが出来るようにすべきと語っている[17]。また会報誌『西信寺浄青』も発行している。

 大光寺青年会は同一〇年一月に設立。「常に仏を中心に念仏を中心に法然上人を中心にといふことであって、講話や余興は第二義的である」といい、同一三年八月の時点で大阪浄青聯盟の中で今一番真剣に青年会をやっていると評価されていた[18]。会報誌『道づれ』の発行や、会長三枝樹正道は例会で「法然上人の御言葉について」の連続講話を行い、主事高雄孝準の日用おつとめ実習会では一年の実習を終えると家庭において会員相互におつとめ回向をし合っていた。同一六年からは大光寺信行道場青年部常会(のち報国会青年部と改称)が開かれるようになったが、同一八年四月、空襲警報発令中の際は常会に集まれなくても寺と会員各自宅で別時念仏会を勤めていた。

 

四、戦時下の青年会活動

 昭和一二年七月の日中戦争の勃発に伴い浄青も変化していった。『支那事変と浄土宗(第二輯)』には戦時下の浄青の活動として、慰問手拭の募集・慰問袋の作成・勤労奉仕・時局対策教化大会参加・浄青指導者講習会の開催・浄土村の建設・浄青道場の開設・浄青同願会が挙げられている[19]。実際に戦争が始まると全浄聯本部は浄土宗務所による慰問金品(慰問袋)・皇軍慰問手拭の募集に同調し、これを教区聯盟に呼びかけ各青年会が参加した。浄青会員の多くが出征し、『青年浄土』(一二年一〇月)には早速「北支戦線を行く」と題して戦地通信が載せられた。開戦から半年後、非常時と浄青運動について全浄聯評議員の稲岡覚順(当時、三二歳)は次のように述べている。

無量億劫にも逢ひ難き本願に逢ひ奉つて念仏精進の中に尽忠報国の誠を捧げ奉るを得るの喜び、我等浄土青年の何たる光栄であらうか、何たる感激であらうか、只感謝の念仏のみ、只広大無辺の聖徳に対し奉り万死報国を誓ひ奉るのみ[20]

このように浄青運動と国民精神総動員運動を同一視する言葉の根底には、同七年の青年信徒大会にて決議された「我等青年ハヨキ教徒タルコトニ依リ、祖国ノヨキ国民タルコトヲ期ス」の精神があり、念仏生活(浄青活動)によって非常時の国家に奉仕する人間を育てることが戦時下の全浄聯の重要な役割となった[21]。その後、戦死者家族の弔問や出征者家族の慰問、皇威宣揚武運長久祈願・戦死英霊追善供養が行われることが多くなり、同一四年三月には近畿浄土宗青年会聯盟が本部理事長江藤徴英の指揮のもと第二回建国奉仕(橿原神宮聖域拡張)を行い、青年会員五百余名が参加した。他にも尾張浄土宗青年会聯盟は農村寺院における青年道場の開設に尽力し、嫩草青年会(甘露寺・三枝樹貫道)は興亜の聖業を翼賛する日本・満洲・中国の同願同時念仏会を同一八年六月時点で計三九回も開催している。戦時下における各地の浄青会員は、戦地・銃後であっても浄青の使命を全うするため種々活動していたのである。それより後、同一八年に全浄聯は解体され、浄土宗報国会青年部に再編成されるのであるが、葵仏教青年会の会員で中外日報社の福見涙草は戦後、次のように述べている。

日支事変から太平洋戦争と戦火がはげしくなるにつれて、そうした宗教活動が出来なくなった。一億一心、一人のこらず国を護るための奉仕ということで、残念にも解散となったのである[22]

これが戦前の全浄聯の結末であるが、福見は浄青運動に参加していた人達と当時を思い出しては、あの時分は活気があったといつも語り合ったという[23]

 おわりに

 以上、戦前の浄青の歴史について振り返ってきた。全浄聯は僧俗一体の宗派仏青及び浄土宗公式の全国青年会組織であったが、設立から数年で戦時下となったこともあり、残念ながら全教区に一寺院一青年会が徹底されることはなかった。また戦争協力の体制も反省すべき点であるが、戦前の浄青が宗門における青年檀信徒への教化・信仰運動を担っていたことは、現代浄土宗の布教活動を考える上で、重要な分野になることを提起しておきたい。


[1] 渡辺章悟「明治の仏教と仏教青年会運動」(『仏教文化』四九、二〇一〇年、一〇八頁)。

[2] 石見国那賀郡の有志青年によって相互の親睦と布教伝道の長策、宗粋の発揚を目的に組織された。(『浄土教報』三〇五号)

[3] 浄土宗大学専攻部並びに伝道部・第一教校・興学会を主に、更に都下有志発起により組織された。趣意書・会則も公表されている。

(『浄土教報』六三一・六三二・六三六号)

[4] 昭和二年二月、全国浄土宗青年聯盟一新会は伝通院前西川洋食部にて発会した。雑誌『宗政批判』(発行所・東京市下谷区上野桜木町三八・宗政批判社)の関係者によって生まれ、「宗教文化運動に参加せよ」との標語のもと、機関紙『宗門文化』(東京市小石川区表町七三・宗教文化社〔一新会本部〕)を発行し活動した。

[5] 昭和二年四月、浄土宗青年聯盟は各地より約七百名が集まり増上寺にて発会した。宗内の同和会による全国青年聯盟の提唱に端を発するもので、「吾人ハ現在及将来ノ宗門青年ヲ団結シテ相互ノ親密提携ヲ期ス(綱領)」と定められた。事務所は大増寺(のち西信寺)に置かれ、機関紙『青年聯盟通信』を発行した。

[6] 一新会と浄土宗青年聯盟による青年運動の背後には宗政問題が存在し、前者は浄土教報社、後者は教学週報社が後援した。青年聯盟は執綱渡邊海旭の死去により瓦解していったと考えられる。昭和初期の宗内の政治団体とその問題については今後の課題としたい。

[7] 『教学週報』二五五号を参照。

[8] 大阪のみ「大阪浄土宗青年会」と呼称した。同会は機関紙『浄火』(編輯人・小川榮太郎、発行人・植村次郎)を発行しているが、筆者は幸いにも昭和八年新年号(第八輯)を収集できた。謹賀新年の広告が知恩院をはじめ一七六件も掲載され盛況ぶりが伺える。

[9]筆者が現在確認しているものは全浄土宗青年会聯盟発行となった『青年浄土』(編輯兼印刷発行人・杉浦演順)三一・三九・四〇・四七~六七・六九・七四号である(浄土宗教化研修会館(源光院)図書室蔵)。戦前の浄土宗青年会を調査するにあたり、『宗報』・『浄土教報』等の情報だけではなく、『青年浄土』や各青年会が発行する機関誌等の一級史料が必要となってくる。。

[10] 青年の年齢制限は全浄聯の規定に定められていないが、堀定正『浄土宗青年会指針』(全浄土宗青年会聯盟、一九三六年)には「最大限度青年前期の満十六歳より三十五歳迄のところに止めて置く必要がある」(二九頁)と書かれ、入会者は日曜教園や日曜学校終了をもって連絡をつけるのが理想であるとされている。

[11] 『浄土宗青年会指針』、九頁

[12] 『青年浄土』六〇号の東京浄土宗青年会聯盟一覧に芝中学校修養会(芝中学校・大村桂巌)、大乗学寮青年会(大乗学寮・栗本俊道)、荏原学園荏原仏教青年会(荏原学園・戸松学瑛)・慈光学園仏教青年同志会(慈光学園・岩野真隆)、伝通会館サンガ・アソカ(伝通会館・木村玄俊)、貞恭婦人会(明照会館・大島徹水)・マハヤナ女子青年会(マハヤナ学園・長谷川良信)、御田学園青年会(御田学園・務台教真)等が含まれていることから、必ずしも寺院限定の青年会ではなかったことが分かる。

[13] 栗本俊道「信徒青年の結成に備へよ」(『神奈川青聯』第一号、一九三六年、二頁)。また神奈川聯盟以外にも僧侶限定の青年会が登録され、僧俗一体が徹底されていたか実態は分かっていない。

[14] 京都浄土宗青年会聯盟女子部は、ルンビニー女子浄青(西徳寺・新谷正雄)・明珠会(平安養育院富松会館・松尾清照)・二幡女子浄青(光照院・漆間徳英)・葵仏教青年会女子部(平安養育院葵会館・秦隆真)を中心に構成された。

[15] 浄青手帳は、クロース表紙三方黄の手帳にて年中行事・要誓五條・宗祖法然上人・浄土宗大意・浄土宗現勢・浄土宗青年会規則・おつとめ・食作法・一枚起請文・浄青会歌・本山・浄青聯盟一覧・その他が記載され、表紙の見返しには表に知恩院山門、裏には浄土宗務所の写真が掲載されている。(『宗報』第二五二号、一九三八年、一六頁)。

[16] 『浄土宗青年会指針』三一~六四頁、参照。

[17] 重田信一「青年会の作り方を答へて組織と資金と事業について=」(『青年浄土』六二号、一九三八年、四頁)。

[18]「大阪大光寺青年会の巻」(『青年浄土』六一号、一九三八年、七頁)。

[19] 『支那事変と浄土宗(第二輯)』(浄土宗務所臨時事変部、一九四〇年、七八~七九頁)。

[20] 稲岡覚順「非常時と浄青運動」(『青年浄土』五四号、一九三八年、五頁)。

[21] 昭和一三年一〇月、時局対策全浄土宗教化者協議大会が明照会館にて開催され、第二部会(青年部)の答申では、浄青の信条として「法然上人の指示される念仏生活を強調し、謙虚、質実、明朗感謝報謝の信念を基礎」、強化方針として「浄青資料の拠出、浄青指導員講習会の開設、浄青読本等を制定すること」が含まれた(『青年浄土』六四号、五頁)。

[22] 福見涙草『激動の宗教界を回想』(福見印刷企画株式会社、二〇一〇年、三一~三二頁)。

[23] 同上、三四頁。なお福見は戦後すぐに浄土宗の青年会運動が再起しなかった原因に浄土宗分裂があったことを述べている。

附記、本稿作成にご協力を賜りました浄土宗教化研修会館図書室(源光院)様・長野十念寺様・大塚西信寺様に深く感謝申し上げます。

この記事を書いた人

赤坂明翔

1990年/福島県伊達郡桑折町生まれ。
大正大学大学院修士課程(浄土学)修了。
福島教区中央組無能寺の弟子。開山は無能上人。
創刊当初の雑誌『浄土』に関心を持つ。
ラーメン好き。ヒラメクカエル。