【浄土をディグる】「きたれ、光の中へ」真野正順を語る

【今回の浄土をディグるはこちら】月刊誌浄土 創刊号

1935-05

「表紙・扉画」 井上正春,「きたれ、光の中へ」 真野正順.「法然上人への思慕」 岡本かの子.「笑っている魚」 朝倉文夫. 「詞一つ」 佐藤春夫.「三つの聖樹」 翁久允.「仏教を国際的宗教に」 岩井智海.「親子」 松浦一.「信仰は釣を鐘をつくよう」 道重信教.「剣と禅と念仏」 結城令聞,「中華民国の建設者 中山先生」 武田泰淳,「てんぼうの清作」 岡本俊一,「真の浄土」 椎尾弁匡,「仏弟子中の一女性」 芝園輝一 P37.0 「随喜行」 中村弁康,「月かげの歌に就いて」 姉崎正治・佐藤春夫・曽我の家五郎・宇野円空・小笠原長生・上田万年・辰野九紫・徳山璉・白鳥省吾・相馬御風・松浦一,「元祖の意味」 高瀬承厳,「上人伝に関して」 佐藤春夫,「茶房娘ユリコ」 北林透馬,「奈良仏教修道院」 ,「子育て呑竜」 大谷梅庵,「信仰相談」 佐藤良智,「扁桃腺の話」 吉原りゅう子,「往生絵巻」 十一谷義三郎・青柳喜兵衛(画),「一枚起請文講義(一)」 中村弁康,「法然上人鑽仰会の経過」 佐藤賢順,「編集後記」 道瀬幸雄,印刷発行/佐藤賢順,印刷人/赤尾光雄

真野正順 プロフィール
まの・しょうじゅん 明治二十五年(一八九二)~昭和三十七年(一九六二)。東京都生まれ。天光院二十一世。文学博士。大正大学学長。昭和一八年(一九四三)、浄土宗教学院初代院長となり、組織宗学大成のため宗門、学界の一体化に努力した。また法然上人鑽仰会を設立し、月刊誌『浄土』を創刊した。世寿七十歳。著書に『仏教における宗観念の成立』(理想社、一九六四)、『日本人の信仰と生活』(法然上人鑽仰会、一九六六)等がある。

この記事は月刊誌『浄土』2021/10月号(No.954)掲載記事を再編集したものです

真野正順先生が法然上人鑽仰会の創設者である ことは、今日までの月刊誌『浄土』、或いは真野龍海台下を通じてご存知の方も多い。しかしその実、正順先生が一体どういう人物で、どんな人生を送ってきたかは、宗内でもあまり知られていない。ましてや私などの平成・令和世代にとっては雲を掴むにも等しい。それ故、書き記さなければいけないと切に思い、筆をとっている次第です。 

英国紳士、ステッキ、フロックコート。真野正順先生は実にハイカラな人物であったらしい。病弱で細身な体でありながら、宗教・哲学・文学・芸術を十分に摂取し、決して能弁ではなかったが、人を惹き付ける魅力があった。中村辨康先生を野性味あふれた「剛」とするならば、さしずめ先生は紳士で上品な「柔」の人物であろう。

正順先生を語る文章はどれも良い香りが漂ってくる。——いや一寸待ってほしい。若き頃の先生は思うよりずっと血気盛んな人物ではなかったのか。事実、自身でも「仏教復興の気運に、血の気の多い私は〝法然上人鑽仰会〟を企画することになった」と言っているではないか。今こそ英国紳士の中に隠れた情熱を追ってみたい。

大正六年(一九一七)、東京帝国大学に通う正順先生に思わぬ出来事が起こった。師である真野順戒僧正の遷化、それに伴い芝天光院への晋山。だが悪いことは続くもので大学卒業の翌年、母はる子を失った。先生は養子ではあったが六歳から愛情深く育てられ、二十八歳で一人寺に残された。

この時、ふと師が壮年の頃に京都に遊学したことを思い出し、真似をするように今度は自らが欧州への留学を目指した。帝大哲学科を首席で卒業し、さらに天光院はかつて浄土宗学本校が置かれた学問への因縁が深い寺だけあって、自負心を持つ若き俊才が浄土宗留学生に選ばれるまで、そう時間はかからなかった。

正十年(一九二一)夏、伸びた髪にポマードを塗りつけ、真新しい背広姿の正順先生、二十九歳。ポケットに片手を入れ、颯爽と神戸港から旅立った。

——やっと欧州に来た。(中略)道にして過ぎゆく端麗な女人、町を出て爽かなるノートルダム丘上の眺望、私の自動車が駆って壮麗なる公園に入ったときは、歓喜はその頂に近づいた。僕の心身は今度の旅を楽しんでいる。安心してくれ給へ——マルセーユにて——

それから英国に渡り、オックスフォード大学で宗教哲学の研鑽を積んだ。生来の育ちの良さに加え、本場英国で紳士の嗜み(ジェントルマンシップ)を身に付けた。その後、ドイツに渡るも関東大震災の報を受け、帰国を余儀なくされた。

大正十五年(一九二六)、正順先生は大正大学の教授に就任する。当時の正大には東京帝大宗教学の大先輩、椎尾辨匡・矢吹慶輝の両教授が君臨し、特に矢吹先生とは宗教学研究室で主任・副主任の関係にあって、大いに社会的宗教に対する薫陶を受けた。

また天光院では土曜会(読書会)を開催し、三佐藤—賢順・良智・密雄—や中村康隆を始め二十代の若手僧侶らと交流し、時にはスキーを楽しみ、時には仏教界の行く末を語り合った。ただこの頃から持病の肺を悪くし、書斎の布団の上で過ごすことが多くなった。

昭和九年(一九三四)、日本仏教界に転機が訪れる。これまで明治新政府の廃仏毀釈や西洋思想の輸入により、仏教は影を潜めてしまっていた。それが昭和に入り満州事変や五・一五事件、国際連盟脱退など社会情勢が目まぐるしく変化する中、今一度、日本人の精神として仏教が見直されるようになった。

そして友松円諦師や高神覚昇師のラジオ放送「聖典講義」で一気に爆発した。世にいう昭和九年の「仏教復興(ルネサンス)」である。しかしながら、いつの時代も伝統教団の認識と行動は鈍い。いち早く友松・高神の両師が察知し、超宗派の「全日本真理運動」を計画した。もちろん正順先生もこれを見逃さず同調した。 一方、浄土宗宗務所では教学部長・辨康先生が一人気を吐いていた。「わが浄土宗でも、

この仏教復興に乗じて策を講じるべきだ!」と叫び、東京の第一線で活躍する中堅・若手僧侶らを集めて何度も会合を開き、意見を募った。

——正順先生には葛藤があった。それは法然上人や浄土宗に対する想いである。友でありライバルだった友松師と共に、仏教復興の気運に任せ、超宗派の真理運動を進めていた。だが辨康先生の祖師法然上人への情熱が、正順先生を一路〝法然上人鑽仰会〟という新計画へと突き動かしたのである。病弱な体であることも忘れ、青春の血潮がみなぎり、四十二歳で宗門を先導する覚悟を決めた。こうして真野正順・中村辨康の名コンビが生まれ、賛同する有志僧侶を募り、法然上人鑽仰の御旗を社会に打ち立てていくのであった。

昭和十年(一九三五)五月、月刊誌『浄土』が創刊された。その記念すべき巻頭講話が、真野正順先生の「きたれ、光の中に」である。

自己を超えて、大いなる生命の中に身を托する。それが「信念」の生活です。「信念なくて、人は真に生きる事はできない。」とはこの理であります。

人間は、色々な「縁」に支えられ生きている。けれど一度「縁」が乱れれば、自分の立場・環境・財産等を失ってしまう。時代が変わってもこの本質は変わらない。だから人間は不安になり、社会や自然の荒波の中で、自己の殻に閉じこもりがちになる。しかし正順先生は、「事業の中に精一杯、白熱的にブツかったとき、心の底からこみ上げてくる感動」のような、誰もが経験のある自己を忘れて何かに打ち込んだときこそ、返って自分自身や「縁」がよく活きてくると説く。つまり自己を超えて、大生命に身を任せることが、「信念」の生活であり、本当に安心して生きる道となるのである。

思えばいつだって人生で痛感することは、心底打ち込めるものがある幸せ、ではないだろうか。ただ正順先生がここで読者に問うているのは、それの有無ではない。その存在が常に私たちのすぐ近くにあるということである。


輝く生命はたえず我等の頭上にある。光りに()つる浄土(じょうど)(すで)其処(そこ)にしつらえられてある。我々(われわれ)はただそれに(はい)ればよい。()えず、(ほとけ)(ねん)ずるときに、わが生活(せいかつ)は、おのずから(その)(かぎ)りなき生命(せいめい)(ひかり)(うるお)うのである。

この輝く大生命が阿弥陀仏であり、光に満ちる浄土の世界は目の前に広がっている。けれど、一切の衆生を救わんとする生命の光を信じて、身を任せるには、逆に己の光を消さなければならない。正順先生はいう〝念仏とは己を滅する道〟であると。それこそが法然上人のいう〝愚に還れ〟の意味であると。

今私たちに必要なことは、自己の殻に閉じこもることでも、ましてや自我を剥き出しにして他者とぶつかることでもない。ただひたすらに「念仏(ねんぶつ)生活(せいかつ)」をすることである。念仏こそが、己を空しくして真実に己を活かす—自ずから豊かになり光に融けゆく—浄土信仰者の道であると、法然上人の教えを広く大胆に捉えて、正順先生は説いたのである。

「きたれ、光の中に」

正順先生はこう私たちに呼びかける。しかし、「念仏(ねんぶつ)生活(せいかつ)」をすることは簡単ではない。それゆえ彼らは、法然上人の大きな人格に触れて、知らず知らずのうちに念仏信仰に入らしめるのために、法然上人鑽仰会を組織した。一人では長く続かないことでも、志を同じくする者が集まれば、自然と心持ちが違ってくる。

鑽仰会では、僧俗問わず会員一人ひとりが隣近所に呼びかけて支部(会員五人以上)を作り、そして支部同士が集まってより大きな聯合支部を作った。正順先生は、個々では小さな波でも、互いに連携すれば、皆の「念仏(ねんぶつ)生活(せいかつ)」が大きなうねりとなり、ひいては地上に浄土の影を映して、よき社会を築いていくことになると確信していた。先生もまた念仏が〝生きる〟教えだということを確かに伝えているのである。

 正順先生、そして龍海先生、紡がれたバトンの光は、これからも受け継がれていきます。どうぞよろしくお願い致します。

月影(つきかげ)のいたらぬ(さと)はなけれども(なが)むる(ひと)(こころ)にぞすむ

ほうねん上人しょうにん

後日談

今回は法然上人鑽仰会の創始者・真野正順先生について書かせていただきました。芝威徳院の真野竜人上人・芝天光院の真野威人上人をはじめ関係者の皆様に多大なご協力を賜りましたこと、心より御礼申し上げます。

私は先日32歳になりました。その歳の正順先生といえば欧州留学より帰国後、関東大震災からの自坊復興や宗教大学の講師・新進気鋭の宗門人として活躍していく、そんな時期です。創設メンバーの中村辨康先生や佐藤賢順先生なども皆若いころから頭角を現し、その青き情熱の結晶として法然上人鑽仰会の発会が起こりました。

彼らのような才覚もそれを上回る努力も足りていない私がなすべきことは、彼らの背中を通して宗祖法然上人から教えを受け続けることだと思います。例えばそれはマラソンの先頭集団に入るのではなく、レースから脱落しないよう粘り強く完走するようなものです。最近も挫けそうな苦難に逢い、未だに悩める青春の真っ只中にいますが、真野正順先生をはじめ法然上人鑽仰会の素晴らしき先輩方に導かれながら、また一歩ずつ“浄土への道”を進んでいきたいと思います。共生合掌。

令和四年五月 赤坂識

【掲載号】2021/10月号

2021-10

この記事を書いた人

赤坂明翔

1990年/福島県伊達郡桑折町生まれ。
大正大学大学院修士課程(浄土学)修了。
福島教区中央組無能寺の弟子。開山は無能上人。
創刊当初の雑誌『浄土』に関心を持つ。
ラーメン好き。ヒラメクカエル。